【日本の摂理歴史7】人生:摂理との出会い 90年代(私の場合) Ⅱ
問題は”人間にある”ということは分かったものの、このひとりの人間、もっと言えば自分自身を変化させることの難しさに直面し、身動きが取れなくなり…。とそのような時に、神様が計ったように、一緒にフィリピンに行った同期の女子学生が摂理のバイブルスタディを紹介してくれました。
摂理のバイブルスタディは、分かりやすく、当時同じ年くらいの信仰の先輩たちが伝えてくれました。聖書の基本的な読み方から始まり、キリスト教の中での教理として難しい部分も明快に伝えてもらいながら、自分がこれまで生きてきた中での社会の問題の原因、人間へのアプローチも明確に分かるようになっていきました。しかし、そのまま全てを受け入れられたわけではなく、一方では自分の経験や知識も邪魔したりしながら、「人間の価値」「命の価値」について、考えざるを得なかったフィリピンでの体験と問題については、聖書の話を聞き終わっても解決することはありませんでした。そして、ほかの信徒の人たちにも話しても分かってもらえることはないだろうと、話すこともしませんでした。半年近く学んだ後、この問題は聖書でも解くことができないのかと諦めかけて、教会に別れを告げようとしたその日に、私は先生の「人生」の話を聞きくようになり、この先生の話に聞き入るようになりました。それはこのバイブルスタディを教えてくださった鄭明析先生があまりにも生きていくことがつらいこの故郷を離れ、海外で暮らそうと決心する日の出来事を綴った人生の路程でした。まだ、日本語にもなっていない、ハングルで届いた原稿をその場で宣教師さんが訳してくれながら、伝えてくださいました。それは、修道生活をした時に、山奥の洞窟で、虎に出会うという話でした。
「三十年間の修道生活の中で、つらいことは一つや二つではなかった。初めて行く道だったので、尋ねる人もなく、私一人でどんなに寂しく孤独だったかを想像することはできないのではないか。このような話をしてもみんなが理解できるだろうかと思いながらも、経験した通り、ためらうことなく、感動のままに書いている」と宣教師さんが語り始めました。
人間は山奥で虎に出会ったらどんな反応をするでしょうか。だれも想像がつかないでしょう。先生の回想を少し聞いてみましょう。
夜どしゃ降りの雨の中で雨を避けるために入った洞窟の中で、ろうそくに火をともしながら、聖書を読み祈り始めました。祈っている最中、何やら背中に覆いかぶさるものがあります。手をそっと背中に回すとふさふさとした毛が。「虎だ。」 その瞬間、まず人間は頭が食べられたら死んでしまうからと、自分の目の前にある地面を爪がはがれるのも忘れて掘り始めます。頭がたべられなければ、次は足や手は食べられても、おなかの部分が食べられたら死んでしまうと、おなかの部分を掘るのです。その姿を二匹の小虎が目の前でじっと見ています。「ああ、この夜に山に登ってくる前にパンを3つ買ったのに一つ食べてしまった。二つを小虎に投げてやったが、もう一つは食べてしまった。もしあの時にパンを食べていなかったら、この背中に覆いかぶさっている母虎にもあげられただろうに」、と後悔しながら、何かあげられるものはあるのか?へその下についているものでも、取って投げてあげたらそれを食べて離れてくれるだろうか…と先生は無意識の中で考えるように回想して語ってくれました。
「死の境でへその下にある物を取ってあげたいと思うその時の心情を果たして理解できるだろうか。私のこの文章を理解できないならば、弟子たちのためにこれを書く必要はないだろう」と。
そうこうしているうちに虎は先生の元を離れました。その時に神様が先生の目の前にある聖書から引かせた聖書の一節は、ヤコブの手紙5章5節「 あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。」というものでした。そして、先生は自分が現実の生活の辛さゆえにこの環境から逃げようとした間違った考えを悟らされるようになり、再び先生は聖書を読み、お祈りをする修道生活に戻られるのでした。まだ、修道生活半ばの時の話でした。
この先生がどのような険しい修道生活の中で、人間の生を見つめ、神様との経緯の中で人生を歩んだのか。このような方に命の価値を学ぶのであれば、たとえ人生の師として学んだとしても自分の問題は解決するに十分だろう、と感じるしかなかった一夜となりました。94年、大学3年生の2月、私はこの先生の一つの「人生の路程」を聞きながら、先生にお会いする前に、この牧師先生から学んで生きて行くんだと決心するようになりました。私はそのような回心の機会を得ながら、先生とお会いするようになりました。
私の世代は、当時先生に頻繁にお会いすることが出来たから、幸いだとも言えますが、実際にこの摂理で伝えられる御言葉を自分の人生の指針にしながら生きていこうと確信を与えてくださったのは、「先生の生」そのものであり、命を愛してやまない先生と摂理の信徒たちの祈り、そして御言葉を通して与えてくださった天との経緯であるということを告白するしかありません。
20年以上この御言葉を聞き、先生に接してきましたが、このような修道生活を経た先生のいつも聖三位を意識し、愛し、仕える姿は、今も昔も変わることがなく、どんな環境にいらしても変わることはありません。
先生はよく「盲目的な信仰ではいけない。はっきりと分かって信じなさい」と聖書のこと、神様のこと、キリストについて語ってくださいました。人生の経緯も語りながら、対話しながら、このような長い文章におつきあい下さった方々ともいつの日か、お会いできる時があれば、幸いです。