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【書評&コラム】脱・「肩書き人生」
「人は人として生きるものだ」私の好きな説教のひとつです。(以下御言葉より)
一国の大統領になっても、人は人だ。職責で、肩書で生きるのではなく、人として生きなさい。財閥になっても人として生きなさい。財閥というタイトルで生きるのではなく、人として生きなさい。学者になっても名誉を極めた人になっても芸術家でも、人として生きなさい。牧師になっても講師になっても摂理のどんな職責、 使命をもらっても、人として生きるべきだ。職責、肩書きがなければみんなが認めてくれないからといって職責を中心にし、また牧師か、伝道師か、何の職責もないのか、人々もそういうことを気にします。職責をもって人を扱ったり接するのではなく、 人だから人として生きなさいという話です。
それなら、職責はなぜ与えるのでしょう。何をすればいいのか分からないから、あなたがやるべきことはこれだと、どういうことをすればいいと、その職責を与えるのです。使命を与えなければ自分のなすべきことは何かを知らないから、職責を与えるのです。
それなのに、その職責を主権として治め、導いて、教えます。職責はひとつの肩書きの名前です。豚のように自分の職責で治めてはいけません。階級を与えるから階級で治め、主権を与えるから主権で治めて人々を引っ張っています。それが間違っていることだから、国では民が立ち上がり、教会では聖徒達が騒がしくなるのです。<以上、御言葉より>
昨年、韓国の大統領に対して国民が立ち上がりました。 日本の政治もさることながら、かの国もばたばたです。これと同じく我々もそうだという話です。組織の中で、大事な構成要素の一つに、職務があります。英語ではdutyとかjobにあたります。要は「はじめに仕事ありき」です。
仕事がなければ、肩書きも生まれません。組織もいりません。
説教の中で、「何をすればいいのか分からないから、あなたがやるべきことはこれだと、どういうことをすればいいと、その職責を与えるのです。」とありました。組織の中で、やるべきことを分かっていないと致命的になります。これは摂理の中でも同じです。欧米の会社では、必ず、職務記述(job discription)があります。これを書き、契約をして、それに対して代価を払います。
あなたの仕事は何ですか?と聞かれたら、この職務記述書を答えるのが普通です。日本ではどうでしょうか?
「一杯あります」とか、「仕事が上から降ってきます」
「一言では言えません」とか、いろいろ。日本は良くも悪くも曖昧です。また、社会人は会社に行きます。「あなたは、なぜ、会社に行くのですか?」と聞かれたら、なんと応えますか?
「家族のために?」「お金を稼ぐために?」「生きるために?」・・・?
おそらく一番まともな、回答は「仕事をするために行きます」になります。人生の中で仕事をすることや会社に行くことは大事な人生の一部ですが、全てではありません。戦後60年、特に日本の男性は、会社の中で自己実現してきました。だから会社の外に行っても、肩書きを重んじます。日本だと、課長は会社の外に出ても、課長です。さらにひどいことに、部長の奥さんは部長の奥さんとして、課長の奥さんと会話したりします。プライベートで課長の奥さんと部長の奥さんが親しくなる事は殆ど稀でしょう。
なんでこんな話を書いたかというと、日本人は「肩書き人生」だからです。肩書きで対話し、肩書きで生きていく。これを続けてきました。韓国もほとんど同じです。日本語で課長はハングルではクァジャンだし、部長はプジャンです。つまり全く同じです。韓国の会社組織はある意味、日本から入っていっているようなもので、ほぼ同じ文化だと思って間違いないです。さらに、そこには終身雇用や年功序列という文化が根底に流れています。もっと深いところでは、日本の普通の会社文化は儒教的発想があるともいえます。基本的に、自分より上のPositionに若い人が来たり、若い女性が上にくることはあまりありませんでした。これ当たり前のようですが、東アジア独特なのです。
海外はどうでしょうか?欧米では、会社の外に出たら、肩書きをはずして、話すのが当然になります。神様の下に一人の人間だからです。地域社会でも生き、家族と過ごして生き、トータルな人生として、豊かであるのか、それを考えます。会社を離れたら、肩書きを外して生きる。これは当たり前です。
この話は、日本人のライフスタイルや人生観にかかわる事であり、とても重要な話です。特に、教会で、そういう世の中の文化を持ってきてしまい、指導者も、信徒も気がつかない風土ができてしまうケースが多いです。これを気づいて直せないので、このような説教が出て来るのだと思います。
また、先生が権威的に感じてしまう・・・、という人は信徒の中にもいるでしょうか?先生を良く分からずに、悪口を言う人も、先生が権威により人を動かしていると。まさに自分も、先生は権威的ではないのだろうかと、若い頃に思った信徒の一人でした。
結論を言えば、それは自分が権威的だから、そのように先生を見てしまうということでした。先生は知れば知るほど、権威を捨てて、私たちに接してくれており、これはとんでもないことだと気づくようになるはず。イエス様も肩書きを振りましたりはしませんでした。
このことは、キリストの最大の魅力の一つですし、私たち一人一人が目指すことです。先生が、何かを強調したり、厳しく仰ったりすることは時折ありますが、聞いている私たちがあまりに不完全で、分からず、価値を軽んじていることが多いからです。肩書き人生を捨てて、年が違おうが、価値観が合わなかろうが、人間として、神様、主を愛して、兄弟姉妹と接し、命を愛して、生きていくべきです。これこそ、キリストに学ばなければできないことです。
「~べき」という言葉はあまり使いたくありませんが、これは日本人が意識しなければ、変えられない考えであり、体質です。
特に、御言葉を聞いて、学んでいる人達は、日本の良き伝統・文化は大事にし、また直すべき風習・文化は必ず直していけるように、頑張りましょう!