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【書評・コラム】<日本人:日本教徒>日本人は日本教徒か? 2
(前回の記事はこちら)
先に挙げた3つの特徴は著「日本教徒」から私見でまとめてみたものだが、全文をさらに精読しても大きく外れてはいないと思われる。
このハビヤンは現代でいえば「脱宗教的知識人」ということなのか、または江戸「宗教社会学者」のような境地だったのだろうか?
現在の宗教社会学者だとしても、禅宗の門を叩いて、何年も座禅を組み、教会では、教師の立場で、キリスト教の教義を信徒に教えた経験のある学者はそういるまい。
著者の言葉を借りて、日本教徒の特徴を見てみると、なかなか面白い。
・「科学的に『破』すること」「人間関係のみを基準に行動すること」は基本的には、現代の日本も全く変わってないように思える。
・ハビヤンにおいては、宗教は、人間が「ナツウラの教へ(日本教的自然法)」通りに「現世安穏・後生善所」に生きるための「方法論」としてのみ存在理由がある。とするとここに、二つの態度が出てくるはずである。一つは、(1)一個人における宗教選択の自由であるであり、もう一つは、(2)現世安穏を乱す思想およびこの思想に基づく行為の排撃である。「思想」を絶対化すればこの二つは矛盾するが、彼のように、思想以前に「ナツウラの教へ」という絶対者があり、あらゆる「宗教乃至思想」をこれに到達する方法論と規定すれば、この二つは少しも矛盾しない。
・「おそらく彼自身は常に変わらず、日本の伝統的な考え方を、さまざまな宗教に仮託して「客体化」し、それによって形成された内なる基準に基づいて、客体化できない部分を「破文」で破棄していっただけであろう。だが、彼は常に、その『破棄した部分』しか口にせず、その『内なる自らの基準』は明示していないのである。これは前述のように今の日本人も同じであって、『反論』はできるが、その反論の基準となっている自らの思想を論理的・体系的に明示せよと要求すると、できなくなってしまう。従って日本人には論争は不可能である。だがそれでいてこの状態を日本人は、”科学的”と考える。その意味ではハビヤンは、まことに”科学的”で、現代の日本人、特に進歩的文化人とそっくりだが、実をいえば、この状態ぐらい非科学的な状態はないのである。」
・普遍主義とは結局、徹底した自己中心で、自分だけが正しく、自分だけが”本物”だという無意識の絶対的信仰が前提になるからである。この考えは、もちろん常にハビヤンの根底にあるわけだが、今でも日本にあり、キリスト教でも民主主義でも共産主義でもひとたび日本に入ると、日本以外のそれらは、すべてにせものにされてしまう。従って日本には、今に至るまで比較文化論というものが成り立たない。
日本教徒の暗黙の教義とこのような日本教徒の特徴が今の10代、20代の日本人にどこまで共感できるかは分からないが、少なくとも昭和生まれの日本人にはある程度、理解してもらうことができるものであり、このような日本人の行動原理を完全には否定することができないと考える。
特に、日本の限定的普遍主義の中で中核をなす「自然」をという絶対者を日本人は長い歴史の中で、大事にしていることは確かであり、私自身を顧みても、日本人のDNAに染みついてるのではないかと思うくらいだ。司馬遼太郎は、「日本人は『絶対』というものが分からない」と話したことがあるが、日本教的自然法や日本教の(言語で表現しがたい)教理を無意識的に絶対視しているということは明らかだ。さらにこのハビヤン的日本人の宗教に関する判断基準はやはり「自分中心」である。これが「日本の限定的普遍主義」ということになる。
摂理の言葉で言い表すならば、一言で「自分式」ということだ。
心を空けることは、何も考えるな!ということではなく、「自分式」を一度横においてみること!だ。そして、神様がおっしゃりたいことを、汲み取れるように、祈りで、対話し、質問もし、そしまた対話し…、そうしてこそ、天の言わんとしていることがきっと分かるようになることでしょう。