【長崎奉行所か、ハビアンか3】切支丹時代 Ⅱ

一方、切支丹時代は、信徒たちからヨーロッパの宣教師に至るまで、国家的な迫害も受けたし、それに加担する者たちもまた立場と経緯は様々でした。

フェレイラ(1580-1650)~1609年から日本で二十数年、福音を伝えながら多くの信徒を励ましながら、捕らえられ、5時間の「穴吊り」の末、棄教し、その後は幕府の通訳として自分を迫害したものの手助けをしたとされる。

井上筑後守政重(1585-1661)~1633年、上記フェレイラを長崎で捕らえたのはこの長崎奉行所の宗門奉行だ。

棄教させるために「穴吊り」を採り入れた。江戸の切支丹屋敷は彼の下屋敷にあり、彼自身もまた元はキリシタンだったという説もある。

不干斎ハビアン(1565-1621) ~ キリシタンとして仏教・儒教・神道の日本の宗教を批判する「妙貞問答」という書を書いたが、四十半ばにして、突然棄教し、長崎奉行に協力し、晩年は、「破提宇子」なる切支丹批判の書を著した。

林羅山(1583-1657)~江戸前期の朱子学者。ハビアンと宗教問答をした対峙は「排耶蘇」に残されている。元々京都の建仁時で学んでいたが、禅僧になるのを嫌い、儒学へ。山本七平によれば、当時の朱子学は日本にとってはキリスト教より新思想だったようで、ハビアンとの問答も自信をもって臨んでいたとのこと。徳川幕府の幕開けに盤石の体制を作るに必要不可欠な人材であり、御用学者の域を超えている。法度の撰定、多くの著作、昌平坂学問所の前身となる私塾を開くなど、江戸時代の儒学(学問)の確立に最も影響を与えた人物。
切支丹時代は、時の権力者の意向が直接的に、信徒たちの生活にまで、影響を与える時代あり、

このような国家的な迫害は世界史的なキリスト教史の中でも数少ない史実として記録されています。続けて、今の時代の相克世界を見ることにしましょう。


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