【書評&コラム】日本人の覚醒

「日本人が宗教の必要性を認むるまでに五十年経過った、彼等が基督教の必要を認むるまでにさらに五十年経過るであろう。しかして外国人宣教師伝ふる基督教にあらずして日本国自生の基督教の必要を認むるまでにはなほ更に五十年経過るであろう、かくて余輩の主張の認めらるるは早くとも今よりなお百年の後である。余輩の骨が墓の中に朽る頃、余輩は余輩が望むやうなる日本人の覚醒を見るであろう。」大正三年(1914年)二月

内村鑑三、53歳の時の言葉だ。今年は、2017年。日本人がキリストを受け入ることができるよう、生涯を捧げた内村鑑三は、100年後に「日本人の覚醒」を夢みていた。

1861年武士の身分に生まれた。東京英語学校(東京外大の前身)に入学。その後、札幌農学校に進学した。クラーク博士はすでにアメリカに戻ってしまっていたが、クラーク博士の薫陶を受けた一期生の影響を受けキリスト教の精神に満ちた学校で、クリスチャンとなる。日本の公教育の中で、唯一、聖書を開いて授業を行った日本の公教育史上の特異点だ。奇しくもこの学校から明治期を牽引する、 人物を多数輩出した。

I for Japan; Japan for the world; The world for the Christ; And All for God.

彼がアメリカ留学時に記した言葉だ。日本が世界のために何が出来るかという発想自体、当時の日本人には全くなかった。クリスチャンでなければ残すことが出来ない言葉だっただろう。

さて、帰国後、第一高等学校の教員となるが、ここで、「不敬事件」(1891年)を起こす。
1890年10月に「教育勅語」が発布され、それに対して、敬礼をしなかったことから起こった。
この事件はキリスト教、国体、教育の問題を絡めた大論争になってしまった。その後、執筆活動をし、「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」「代表的日本人」などを世の中に送り出す。

1899年から「聖書の研究」という冊子を刊行し、日本のキリスト教に新しい風を吹き込む。

例えば、
「乗雲の解」<聖書之研究 6月号>「キリストが雲に乗りて来たり給う」という記事を非科学的なりと嘲笑する者に対し、マタイ24・30において、「雲に乗る」の「乗り」は原語にはない。雲に乗り来るは訳者の意訳である。ヘブル12・1「多くの証人に雲の如く囲まれ・・・」とあるように「雲」は詩的表現とみて「キリスト天の聖徒の群を率いて来り給う」と解して誤りではない。

その後、十数年を経て、彼は「キリスト再臨」の運動を始める。要するにキリストは肉体をもって現れ、我々を救ってくださると、唱え始めるのだ。さらに全身全霊を注いで、ロマ書(ローマ人への手紙)の読解を行う。ここでは、肉体の贖いについて解いている。

・・・救主とは誰ぞ、イエスキリストである、我等は今や彼の来るのを待ち望む、
・・・我らの救いは決して既に完成したのではない、人或いは救い又は救済と言ひて単に悪行者を真人間と化せしむるが如き事実を意味する、而して曰ふ我は救はれたりと、或いは更に他人をも救はんと欲すと、しかしながらパウロに在りては救いとはかかる小問題の謂ではなかった、救いとは何ぞ、曰く霊魂と共にする身体の救いである。(1918年2月)

内村鑑三が説いたキリストへの思いと、そのスタイルは韓国キリスト者にも受け入れられ、現韓国キリスト教の歴史にも、影響を与えたと言われている。良くも、悪くも…。
日本が、軍国主義へ進む中、また自らの主張から受ける迫害の中、晩年は、以下のような言葉を残している。
「今はカトリックに帰るべき時でない、プロテスタント以上に進むべき時である。」(昭和3年4月)
「真のキリスト教は宗教に非ず」(昭和4年2月)

そして、
「『無教会』という考え方が『主義』として、宗教化されるかもしれない…、」と恐れたという。
彼もまた、神様が日本に準備して遣わしてくださった人物であることに疑いはない。
内村鑑三が夢見た「日本人の覚醒」の実現は、100年を経た今、なされているだろうか…。


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